なぜお世辞を言うのでしょうか

  お世辞を言うのは相手の「気に入られたい」か相手の注意を引きたいからでしょう。
何も「sedu=sezu=せず」に何かが「手に入る」と考えるのは甘ったれた考え方であり
それでは何も「得られない」でしょう。普通の人より「たくさん獲物を取った」人は
「sazo=さぞ」大変な努力をした事でしょう。何もしないように見えるのに「手に入る」
場合があります。それは神からの「sadu=sazu=授」かり物でしょう。多くの物が「手に
入るかどうか」は上に立つ人の「sadi=sazi=匙」加減よる場合があります。「saden=
左伝」は特定の人に「sadu=sazu=授ける」一種の免許皆伝です。運命は天から「sadu=
sazu=授かる」物、自然の「sada-me=定め」と考えている人も多いようです。「定め=
sada-me」の「me」は「網の目」の「目」かもしれません。天の網の「目=me」は粗い
ように見えるが悪い事をした人は見逃さないと言われます。天網恢恢疎にして漏らさず
という諺があります。沖縄の今帰仁方言では「sedi=sezi=セヂ=精霊」で「シヂ」高
センは「精霊を受け取り易い、精霊を帯びた、神々しい」などの意味があります。首里
方言では「シーダカサン」と言います。「精霊」の「精」は沖縄方言では「シー」です
が、「精霊」は元々はお世辞の世辞と同じで「シヂ=sedi=sezi=精霊」だったと考え
られます。

アッカド語では次の通りです。

 she'du = 祀られ・守られている神、幸運、英語では a protective deity, luck

 she'du rashu' = 運が良い、幸運(の女神の愛)を得る、幸運にも、英語では to acquire luck

 she'du bi'ti' = 各家庭の神、英語では household god

she'du lamnu = 悪魔、英語では evil deity