死んだ子の年を数えるな

  ある母音を強調したい時にはその母音の後に「n」を加える場合があります。「shida」は「shinda」になります。
自分が持っているのは数に限りがあります。持っている以上の数は数えられません。飴玉を5個持っていた人が
最後の5個目を食べたらもう「手持ちの飴玉はない」ので「数えられません」。持っているのが「無くなったら」か数え
られません」。どんなゲームでも数が多いか少ないかで勝負を競います。ゲームが「sunda=済んだ」ら、もう「数え」
ません。人間も「shinda=死んだ」ら年を数えても意味がありません。手元にないのを数えるのと同じで無意味です。
日本語とスメル語の深い関係を考えると、「死んだ子の年を数える」には同じ意味の言葉が含まれていると推測でき
ます。即ち「死んだ=shinda=shida=数える」と推測できそうです。日本の諺は「死んだ子の年を数えるな」と否定
になっているのを見ると、 「shada」行音には「数えてはいけない」や「数えられない」など「数が途絶える」、すなわち
「連続した状態で無くなった」状態を表す場合があると推測しえも良さそうです。「shada, shida, shuda,sheda, shoda」
の音を見ると「shadan=遮断」スル、現状を「続けさせない」、「shidan=指弾」スル、これ以上現在の任務を続けさせ
ないように責任を問う、「sunde=スンデ」の所で、もう少しで終わる、途絶える、亡くなる状態などがあります。これら
の言葉は「連続した数」として「数えられるか数えられないか」と関係がある言葉だと分ります。子を亡くした母親はそれ
でも亡くなった子の年を数えたくなるのかもしれません。そのような母親に「死んだ子の年を数えるな」と言うのは酷い事
かもしれません。子を失くした母親はその言葉を自分を鞭「打つ=utu」言葉と思うでしょう。時計は時刻を告げます。時計
は「数を数えて」時間を知る仕組みになっています。時計の音が聞こえると3時の鐘を「打つ=utsu」などと言います。
「打つ=utu=数える」です。大昔の人は「3=san」は「多い、数えられないほど多くの」を表したと言われます。とても
多い回数、とても酷くやられた状態は「33=散々=san zan」と言います。逆に二度ある事は三度あると少ない回数を「3
=san=mi」で表す場合もあるようです。3は三つの「mi」です。「mi」を数を「数える」「utu」とくっつけると「mi-utu=
min-utu」になります。その音は短い時間を数える英語の「min-ute」と似ています。

 スメル語とアッカド語は次の通りです。

SHID = 数える、数、スメル語、英語では count, number

utu = 数える、数、アッカド語、スメル語の SHID と同じ、英語では count, number

minutu = 数える、数、アッカド語、スメル語の SHID と同じ、英語では count, number