逢はずにいたいと天国に行く時には荼毘に伏す

 「逢わず」は古語では「ahazu=逢はず」と書きます。あの人に逢はずにいたい
と思ったら横道にでも入って「隠れる」のではないでしょうか。自分の後ろ、背中
は見えませんので「背後に」隠れるのが一番良い方法でしょう。人間を含めて生物
は自分が隠れたくなくても「お隠れ」になる場合があります。「お隠れ=死亡」です。
仏教では「死んだら火葬にする」風習があります。「dabi=荼毘」に「伏す」と言い
ます。立っている人間は「伏す」と見え難いです。「襖」があるとその「向こう側」は
見えません。襖は「隠す」為に工夫された建具です。男女が肉体関係を結ぶ時には
他人には見られたくないので「襖や衾」を使います。「同衾する=肉体関係を結ぶ」
時の寝具を「衾」と言います。 「死」はキリスト教では「神に召された」即ち神の
お気に入りになり掴まえられた、と解釈されるようです。「dabi=荼毘」に付すのは
「神に召された、神に掴まえられた」からだと理解できます。私は「荼毘に付す」は
「荼毘に伏す」と書いた方がもっと理解し易いと思っています。間もなく死ぬだろう
と思われる時、危篤の時は「matu=末」期です。末期になると、ただ「matu=死」を
「matu=待つ」しか方法がありません。亡くなったら死体を始「末=matu」します。
その方法の一つが「荼毘にふす」方法です。

 シュメル語とアッカド語は次の通りです。

 A’UR DAB = 隠れる(捕まえられてはいけないと脇の下のような見えない所にしがみ付く)
          シュメル語、英語では hide

 A’UR = 脇の下(見えない所)、シュメル語、英語では armpit

    DAB  = 捕まえる、シュメル語、英語では seize

 puzra ahazu = 隠れる(見えない所、避難所に入る)、アッカド語、英語では take refuge

 matu = 死ぬ、アッカド語、英語では die