シジンナラン、死んでも出来ない、死んでもしない

  絶対そんな事は「出来ない」、決してそんな事は引き受け「出来ません」と言う場合に
「死んでも出来ない」と言う場合があります。どんなに「悪い」生き方をしても「死んでも」
「後悔しない」と言う人もいます。 「死んでも出来ない」は名護方言では「sizin=シジン」
ナランと言います。名護方言を知っている世代でも「sizin=シジン=死んでも」と思って
いますが、トルコ語が分ると「sizin」は「否定」を表す「たんなる接頭語または接尾語に
過ぎない」と解釈すべきだと考えられます。 シジン・ナランは「否定=sizin=シジン=
ナラン=出来ない」で、否定を表す言葉を二つ並べた言葉だと理解出来ます。「sasu-gani=
流石に」それは引き受け「出来ません」の「sasu-gani」も「sasa」行音ですので「否定」を
表す言葉、「出来ません」が後に来るのは必然でしょう。 シジンナランの「シジン」も、
流石にそれは出来ない、の「流石」もトルコ語由来の言葉と考えられます。ところでどうして
「さすがに」を「流石に」と当て字で書くのでしょうか。「水が流れる」のは「普通の事、
尋常な事」です。簡単に「水に流す」事はできます。簡単に「石を流す」事は「出来ません」。
「出来ない事を表す」のに「石を流す」と表現するのは「頓智」かもしれません。人間には
「出来ない」事が自然界では起ります。「信じられない現象が起こり」ます。それは「大地震
が起きた時」には「石も流れる」「山の木や岩石が崩れて流れる」のが分ります。「sasu-ga=
流石」の音と漢字で「否定」を表すのは納得がいきます。「決して」「〜せず=sezu」と言う
良い方もあります。「決して」の後には「否定」の言葉が続きます。この言葉使いもトルコ語
と関係があると見なして良いでしょう。 上の人が「下の」人に「命令を下す」のは人間社会
では自然です。上の人が発言する時には「sizu=静」まれ、「sizu-kani=静かに」しなさいと
言います。  上の人が「下」の人に命令を「下す」方法には「sizi=指示」もあります。
英語・トルコ語辞典に「un-=否定を表す接頭語」を入力すると「siz, -siz」や「-sizlik」が
出てきます。状況が「悪化する」と物事を進めるのが難しくなります。「sizulaki=しずらく」
なると言います。「力のない」人は「guchi=愚痴」を零す場合が多いのではないでしょうか。

  トルコ語では次の通りです。  

cok mutsuz = 惨めな、見ておれない、苦しんでいる、哀れな
            英語では miserable, suffering, wretched
tahlisizlik = 不運、ツキが無い、英語では misfortune, bad luck

yetersiz = 不十分な、不足の、英語では insufficient, deficient

sabirsiz = 我慢出来ない、辛抱強くない、耐えきれない、英語では impatient

tarafsiz  = 偏見のない、偏らない、依怙贔屓しない,英語では unprejudiced, impartial