ふつつかな者ですが

 私は日本語と似ている外国語を調べるのを趣味としていますが、似ている言葉の
本当の意味を知る度に日本語の辞典に載っている「語源」の解説は「実にデタラメ」
であるのに気づきます。「ふつつか」は元々の表現は「ふとつか」だったとの解説は
なるほどと思いますが、その後の「futo」を「太」と解釈しているのは「噴飯物」です。
こんなデタラメなこじつけはないでしょう。「futa」行音の言葉は「futa, futi, futu, fute,
futo」は全て「考える」事と関係があるのが分ります。「futa=二」目と見みられない、
ならば「考えられない」ほど「醜い」状態でしょう。 絶望の「淵=futi」にいるのは、
もう生きる意味が見いだせない、どうして生き続けるのか、その理由が「考えられない」
時に言う言葉だと考えられます。普天間飛行場で有名は沖縄の普天間の「普天=fute-n」
も「考える」と関係があると考えられます。人間に良い恵みを与えてくれるように神様に
お祈りする、神様に「考えてもらう霊場」が「権現」と考えられます。 辞書には権現は
日本の「神号の一つ」と解説されています。普天間には「普天間権現」があります。それ
を考えると普天間の普天は「fute-n=信じている神に人間の事を考えてもらう、神について
考える、神にお祈りする」などの意味があると考えられます。普通、一般の人には「考え
られない」態度や行動が「fute=ふて」腐れるで、妻や夫以外と性的関係を持つのが「fute’
=futei=不貞」でしょう。 「太=futo」いパイプについては前に述べましたのでそれを
もう一度読んで下さい。日本人には「futo」思いついたと言うだけで私の「考え」が理解
できるのではないでしょうか。以上の言葉を見ても「futa」行音は「考える」事と関係が
あるのが分ります。それでは「ふつつか」の説明に入りましょう。昔の娘の両親は自分の
婿になる人の両親に娘をよろしくお願いしますと言う時には「ふつつかな」娘ですがと言
ってから話を進めました。ふつつかなの「つかな」は思い付かないの「つかな」で「futu=
ふつ」は「考える」でしょう。従って「ふつつかな」は「考えが至らない、あまり思い付か
ない、思慮深くない」を表す「謙譲語」だと分ります。私はラテン語の「puto=考える=
think」を知るまでは以上の事を思いつきませんでした。日本語へのラテン語の影響も大きい、
「太い」と「考え」られます。

ラテン語では次の通りです。

puto = 考える、信じる、英語では think, consider, conceive, believe