召しあがると食わず嫌い: 食わず嫌いは良からぬ考えでしょう

 食べ物は「食べない限り」「美味しいかどうか」分りません。美味しいかどうかは「食べて」始めてその味が分ります。
「召し上がれ」と言われても食べないのは「yokalanu=良からぬ」態度だと思われます。召し上がれは「mesi=飯=召し
で「メシ」の音は「食べ物、食べる行為」を表しています。同じ意味の言葉を二つ並べてある動作を強調する場合もあり
ます。その法則を利用すると「召しあがる」は「召し=あがる=agalu=akalu=食べる」と推測できます。「yokalanu=
良からぬ」と判断出来るのは「akalu=食べる」事を通して判断します。お乳だけを頼りに生きて来た哺乳類が乳離れを
して飲む行動から「食べる」行動に移る時を名護方言では「aka'lin=アカーリン」と言います。まだ乳飲み子や授乳中
の動物を貰ったり、買ったりする事は出来ません。「akalitan=アカリタン=乳離れをして食べ物を食べ始めた」状態に
なって始めて猫、犬の子を貰えるし、子豚を買えます。 「akalin=アカリン=自分で食べ物を食べる」前に赤ちゃんを
母親から引き離す行為はそれらの赤ちゃんの死を招くでしょう。その行為は「yokalanu=良からぬ」行為です。 食いも
しないでそれは食べないという「食わず嫌い」も「良からぬ」行為でしょう。 「食べ物」は「食って」初めてその味が
分ります。アカリンや「良からぬ」はアッカド語の「akalu=食べる」と全く同じと見なして良い、又はそれから派生した
言葉と見なして良さそうです。木々から「k=g」と分りますので、「召しあがる=食べる」の「agalu」とアッカド語
「akalu=食べる」は同じ、即ち「召し=あがる=agalu=akalu=食べる」であるのが分ります。「yokalanu=良からぬ」
の「nu」は否定です。「akalu」の「a」が「yo」に変化したのはその為かもしれません。 日本語の「yakala=輩」には
「悪い」意味があります。 「他人の食べ物に手を付ける、他人の食べ物を奪って食べる」ような人が「yakala=輩」と
言われたのではないでしょうか。「yakala=輩」には「一族」の意味もあります。「同じ釜の飯を食う=yakala=輩」で
あるのが分ります。善悪を問わず、「akala」を含む言葉は「食」と関係があるようです。「職=仕事」が無いと人間は
「食っていけない」のがこの世の習いでしょう。「食=職」であるのが分ります。


 アッカド語では次の通りです。

 aka'lu   = 食べる、 英語では eat