アッカド語とギリシャ語のマツ

 日本語にはアッカド語のマツとギリシャ語のマツが入って来ていますが、その二つの
言葉は「反対に近い」意味がありますので「正月に門松」を立てるかどうか「墓地に松」
を植えるかどうかの違いとなって現れます。正月を「期待して待つ」人たちは「門松」
を立てるギリシャ語系の人で、「墓地に松」を植える人たちはアッカド語系の人たちです。
ギリシャ語から日本語に入っている言葉には「睫毛」の「睫=matu」があります。睫毛
の沖縄方言は「mati=マチ」ギーです。「松=matu」の沖縄方言は「ma’ti=マーチ」です。
人と会う場合には「待ち合わせ」をします。待ち合わせの目的は「会う=自分の目で相手を
見る」事ですので、待ち合わせの「mati=待ち」は「目」と考えられます。門松の「松」も
「祝い」の時に最初に「門」の前で「見る」木が「門松」です。「門松」にはめでたい時に
「最初に目にする物」の意味があると考えられます。「待ちに待ちたる運動会」や、「待て
ど暮らせど」などはギリシャ系の心情を表しています。人生の終り頃には病気に苦しむ人が
増えます。「末期=matu-go」の症状が出ると間もなく死にます。「マツ」の音が「終り、死」
に関係があるのは「アッカド語」とその影響が大きいと考えられる「トルコ語」です。沖縄
方言では人が亡くなったら「ma’ti=マーチ」と言います。名護方言では「亡くなって
しまった」は「ma’ti=マーチ」ネンです。一休さんが正月に歌った歌「門松は 冥途の旅の
 一里塚」はアッカド語トルコ語の「mati=matu」の意味、末期の「matu」の意味が分らない
と全然面白くありません。門松の「松」が知人友人に会うのを心待ちにしているの「待ち=mati」
と同じ音であるのを知らないと面白味が激減します。一休さんの歌には「楽しみのmati」と「死を
恐れるmati」が同居しているのです。そこに面白味があるのです。チームの力は一つの目標に向か
って結束している時が一番強いです。皆の考えた方がバラバラ、「マチマチ=machi machi」なら
そのチームは負け続けて近いうちに「解体の憂き目に会う」かもしれません。「あそこの方」、
あの世へ行くかもしれません。「あそこ、あの世へ」行ったは名護方言では「ama’chi=アマーチ」
イジャンです。私は二十数年前に川崎真治著の「日本語の発祥地はメソポタミア」を読んで全然
意味が分りませんでしたが、最近1〜2年は繰り返し読んでいますので少しは意味が分るようになり
ました。きょう注文していた川崎氏の「日本語の語源−海を渡って来た日本語」が届きましたので
その本を読み始めています。氏の本を読んでアッカド語のマツとギリシャ語のマツを比較するのを
思いつきました。

アッカド語トルコ語ギリシャ語では次の通りです。

matu = 死ぬ、殺す、アッカド語、英語では to die, to put to death

amachi = 終り、目的、(殺す)標的、トルコ語、英語では end, purpose, target
uchi = 終り(討ち殺したら終り)、トルコ語、英語では end

mati = 目、ギリシャ語、英語では eye