漢文や漢字を読み易くする為に付けるひらがなをなぜ「おくりがな」と言うのでしょうか

 漢文や漢字を「読み易くする」為に付ける「ひらがな」をなぜ「おくりがな」と言うかその理由が
あなたは分りますか。辞典にも載っていませんし、高校までの授業でも教わった記憶はありません。
中学生の頃に一度だけなぜ「振り仮名」だけで十分なのに「送り仮名」という言い方があるのか不思議
に思った事がありましたが、その訳を知ろうと資料を漁った事はありません。その理由が昨日やっと
分りました。たまたま分りました。偶然分りました。その理由を知っている方は多いと思われますが、
その人たちはなぜその点をもっと強調してその事実を広めようとしないか不思議です。それを言うと
世間から馬鹿にされると思っているのでしょうか。トルコ語の入門書の「語学王 トルコ語」、野田
納嘉子著、三修社、を読んでいると、「okumamak=読まない」が目に入りました。以前に「azuki=小豆」
の「az」はトルコ語由来の言葉だと知っていましたので、「oku-ri=送り」仮名の「oku」はトルコ語
由来の言葉だとピンと来ました。送りの「ri =り」は「〜の」の「の為の」と考えられます。「漢文や
漢字」を「読む為の、読み易くする為に」つける仮名の一種を「oku-ri」仮名と名付けているのは
トルコ語が分らないとその謎が解けません。トルコ語の動詞の語根は語尾の「mak」や「mek」を除いた
部分ですので、「読まない」の語根は「okuma」になります。「読まない」は否定ですので「ma」が否定
だと考えられます。そう考えると「oku」が「読む」の語根で辞典に載っている「読む」は「okumak」と
なっている可能性が大です。英語・トルコ語辞典に「read」を入力すると「okumak」と「okuma」が出て
来ます。読むのは本だけではないようです。読唇術という言葉があります。何を言っているか「唇の動き」
だけで何を言っているか分る技術です。心の「奥底=oku-soko」「迄=made」は「読めない」と言う表現
があります。これは「奥までは=okuma-dewa」読めないと言い換えが出来ます。「奥」の漢字を当てては
いますが、「言葉の意味」は「読めるか、読めないか」に「言及している」言葉です。この奥も「読める
かどうかの観点から考える」と「完全なる当て字」と考えて良いのではないでしょうか。


 トルコ語では次の通りです。

okumak = 読む、英語では read

okuma = okumak と同じ

okumamak = 読まない、勉強しない、英語では do not read, do not study