自分や自分より高い人の頭の高さを飛び越えられるか

  スポーツの得意な人は中学生の頃から自分の背の高さ、頭の上を飛べますが、一般
の人で自分の「頭」の高さを「飛び越え」られる人は僅かでしょう。日本語には「頭越し」という
表現があります。「頭」は「上」にありますので、自分の「頭を飛び越える」人は「優秀」なのが
分ります。 しかし普通の人は自分の「頭越しに」何かを決められると嫌な思いをします。
「頭」と「越える」は関連が深いのが分ります。 物を「飛び越える」には「跳躍=ジャンプ」を
します。「取る=tolu」の名護方言は「取イン=tuin」です。「o」が「u」に変り、「l」の音が抜け
落ちて「u」が「i」に変り、「n」がくっ付いています。共通語の「l」や「r」の音は良く抜け落ちます。
日本語の「頭=atama」に「l」を付け加えるとトルコ語の「頭を飛び越える」意味になります。
「l」だけでなく「la」行音も抜け落ちると考えた方が良い場合も多いようです。「残り物には福が
ある」という諺があります。「後勝り」です。沖縄方言では「後勝り=アトゥマサイ=atma-sai」
です。アトゥマサイの「atma」に「la」を加えると「at-la-ma」になります。前の物を「飛び越えた」
状態が「atma-sai」ですので、「atma」と「atlama」は同じ語源から派生した言葉だと考えられます。
今までの「頭=一番上に有る物」を「飛び越した」ので今までの頭は「頭で無くなり」自分が「頭
になる」のが「atlama」と考えて良いでしょう。日本語でもトルコ語でも「la」は「否定」を表します。
「今までの頭の高さ」を「飛び越える」のが「頭=atama」の「否定=la」の「atlama」と推測でき
ます。カエサルは「これからが決戦だ」、「決戦を挑む」時だぞ、と皆に知らせる為に「賽は投げ
られた」と言いました。「投げた」物は「飛んで行きます」。「飛んで火に入る夏の虫」と言う諺が
あるように戦は勝つか負けるか、一か八かの勝負です。「新=可惜=atala」「命を失う」かも
しれません。「崖から飛んだら一巻の終わり」でしょう。「可惜=atala」、「命を失う」と「飛ぶ」は
近い音と意味で示されているのが分ります。

 トルコ語では次の通りです。

  atlama = 飛ぶ、飛び越える、英語では jump