暴れると持て余す

  手を少し上げたら取れそうな木の実を取る時には「手や腕を伸ばす」と言います。
暴れる時の動きを良く見ると「手・腕」と足を「伸ばしている」のが分ります。「abara」行音
は「手足を大きく伸ばす動き=暴れ=abare」などを表しているようです。 大きく腕を伸ばし
て上にある物を取ろうとすると「abara=あばら」骨が「見える」時があります。あばら骨は
「伸ばす」と「見える」に関係がありそうです。 沖縄では「山」の多い地域は「yam-baru=
山原」と言います。山は平地に比べて「高い」所です。山など高い所には「no-boru=登る」
と言います。高い所に「no-boru=上る」と四方八方が「見えます」。ここでも「bara」行音
は「見える、見る」と関係があります。ひょっとしたら「bara=薔薇」は一番綺麗に「見える」
又は一番あちこちで「見られる」花かもしれません。将来が良いように「見える=思われる」
ならば将来は「bara=薔薇」色と言われます。一纏りの物は「そのまま見る」方がずっと良い
です。「bara bara=バラバラ」にしたら綺麗に「見えない」ばかりか、何が何だか分からなく
なる場合があります。秘密は隠すのが普通ですので本人か内部の人しか知りません。本人以外
や外部の人が「知る、見る」のは秘密を「曝け」出すからです。曝け出すのを「bara=バラ」ス
と言います。秘密をバラすと秘密が「bare=バレ」ルと言います。秘密が外に出て「見え見え」
になる、「bare bare=バレバレ」の状態が秘密が「バレル」です。おとなしい人が酒を飲むと
「abare=暴れ」る場合があるそうです。そういう時には本性が「現れた=見えるようになった」
と言います。「暴れる」と「現れる」、「見える」は関係が深いようです。夜は太陽は見えませ
んが、夜が明けると太陽が「現れて」「見える」ようになります。動物や人間が暴れると宥めて
おとなしくさせるのはそう簡単ではありません。その時には「手を余す」と言います。 日本語
では「b = m」ですので、「abaru=amaru」です。物が「有り余る」とどうして良いか分らない
時が多いでしょう。持て「余す=ama-su」と言います。コップに入る以上に水やビールを注ぐと
「溢れ出し」ます。物は「amari=余り」にも多いと溢れ出します。ビールがコップから溢れ出し
たら困りますが人が暴れても困ります。「abare=暴れ」や「余る=amaru」のは「悪い」状態を
表す観点から見ると同じ系統の言葉であるのが分ります。名護方言では「暴れる」は「abar-rin
=アバーリン」で「始末・取扱に困る」は「amar=アマー」フンと言います。「abar=amar=困る」
状態であるのが分ります。人間は他人に「見られたら困る」事も多いのではないでしょうか。
泥棒は「盗人=nusu-tto」とも言います。盗人の「盗」は「nusu=ヌス」と読むのが分ります。
沖縄では「盗人=nusu-du'=ヌス・ドゥ」と言う地域と「nusu-lu=ヌス・ルー」と言う地域が
あります。「to=do=du=lu=ru」と変化しても同じ意味です。

 シュメル語とアッカド語は次の通りです。

 a bad = 両腕を広げて伸ばす、シュメル語、英語では to spread the arms

 baru' = 見る、アッカド語、英語では to see, to watch