節度と受け入れる限度

  社会では生産物が全ての人に行き亘るように、全体が出来るだけ満足するように配分するのが大事です。
それには個人にも「setudo=節度」が求められます。「setudo」は「sedo」と「tu」に分けられると考えられ
ます。「sedo=受け入れる」「tu=良くない=悪い=異常=否定」と考えられます。 津波は異常現象に伴い
起るな波です。「tu=津=異常な」と考えられます。「setudo=異常・異様な量や物を含めて全てを受け入れ
てはいけない=節度」になります。 何も「せず=sezu=sedu」に何かが「得られる」と考えるのはいけない
考えでしょう。体を動かして働かずに「口を働かせて」「物を手に入れる」方法はありそうです。それは金持
などお金のある人を誉めてその「お零れに預かる」事でしょう。そのような態度を、お「世辞=sezi=sedi」
を言う、と言います。普通の人は霊感が働かないですが、霊感が「働く」人は「霊を受け入れる」のが多い
ようです。沖縄方言では「sedi=sezi=せじ」高いと言います。霊を「感じる=受け取る=受け入れる」と
見なして良いでしょう。世間では身分・地位の高い人やお金持ちの言う事を「聞き入れる」場合が多いのでは
ないでしょうか。「公共のお金」は権力者の、「お金持ち」のお金は「お金持ち」の「指示=sizi=sidi」で「
分配」されます。それがなされると「関係者は」分配されるの「受け取り」ます。「sada」行音は「受け入れる」
状態を表す言葉だと考えられます。「運命」には逆らえないので運命は「受け入れるべき事」と考えている人
が多いでしょう。運命を易しい言葉では「sada-me=定め」と言います。


 アッカド語では次の通りです。

 she'du = 祭られている神、幸運、幸運を得る、英語では a protective deity, luck

 she'du rashu' = 運が良い、幸運を得る、幸運にも、英語では to acquire luck

 she'du bi'ti' = 各家庭の神、英語では household gdd

she'du lamnu = 悪魔、英語では evil deity